雪山童子の故事に学べ 私どもは先般、顕正会本部及び全国の地方会館・事務所等へ向けて、止むにやまれず「お伺い書」を送付させていただきました。 大事中の大事たる御本尊に関しての質問事項であります。しかしながら現在のところ、本部からの回答はありません。これは黙殺でありましょうか。もし、そうであるならば、不誠実であります。返答に窮する事が正々堂々たる「日本国の中の顕正会」にあってよいのでしょうか。 私どもは、このまま有耶無耶に終わらせてはならない、と思っておりますので、今後も可能な限りの手を打っていくつもりです。 特に今回、強く申し上げたいことは、以下の事項であります。 大聖人が松野殿御返事に御教示下された雪山童子の故事はこれ、依法不依人(法に依って人に依らざれ)を示し給うたものであることは諸氏の周知の通りでありましょう。鬼神に対して礼を取り、身につけていた鹿皮を脱いで法座を設け、頭を地に付け掌を合わせ、願わくは残りの半偈を説きたまえと、御仏の小乗経の僅か半偈を請い給うのです。人を食らう恐ろしき鬼神に対しても師弟の礼を尽くし、法を求めるのです。そして残りの偈を聞き大歓喜を起こし、我が身仏果を得られるならば悔いなしと、鬼神との約束を守り、我が身を差し出すのです。ただし、このまま死んでしまっては、後世の人々の為にならぬとて、辺りの石や、壁、道や樹木に、手当たり次第にこの偈文を書き留めてから鬼神の前に身を投じるのです。 この書き付けは、何としても人に伝えたいとの「広宣流布」の思いであり、種脱の相違はあっても仏法を求める大精神は全く同じである、との意味に他なりません。 また、この書き付けには、記名、署名などは存在しません。仏の悟りの文字即ち、「諸行無常・是生滅法 生滅滅已・寂滅為楽」の一偈の経文です。これを後世の仏弟子が「出処不明の匿名、誰が書いたのか分からぬ文字、公衆便所の書き込みと同列だから信ずるに足りぬ」等と侮る者があるとすれば、「種脱の相違はあっても求道の大精神は全く同じ」との浅井先生の指導にも異を唱える者と言わざるを得ません。 また、そのような考えは雪山童子の「歎かわしき処は我一人のみ聞いて人の為に伝えざらん事をと深く思いて、石の上、壁の面、路の辺の諸木ごとに此の偈を書き付け」との広宣流布の思いも挫くものです。 雪山童子は、記名が無いからとか、匿名であるから信じられぬなどという愚癡の者の為に、たとえ卑しい相手であっても、人を見て法を軽んじてはいけないとの依法不依人の大精神を示されたのです。誰が書こうと真理ならば真理であり、道理ならば道理です。判釈は仏法の道理によるべきであり、これが即ち、依法不依人なのです。 文字は力を生じます。加えて、インターネットの影響は、文化・商用のみならず教育、政治、軍事、行政サービスに至るまで、人間社会のあらゆる分野に及ぼうとしています。また昨今、中国の異常なまでの反日暴動は、ネットの書き込みに端を発しています。決して侮れるものではありません。一個人であっても、全世界に瞬時かつ容易に情報発信が可能なツールは、革命的なものです。 もし、このような社会的影響力の大なるツールを過小評価し、単に匿名・無記名であることを理由に忌避するならば、顕正会は時代のニーズにすら対応できず、世論も喚起させられずに埋没していくこととなるでしょう。従って国論を二分する国立戒壇の大論争などは夢のまた夢、どれほど壮大な夢であっても現実を直視できなければ絵空事に他なりません。 ツールを有益に使うか、そうでないかは、使う側の見識・モラルにあります。尤も、顔の見えない匿名のネットワークを無法地帯と呼ぶ側面も道理です。ゆえに用心せねばならぬ事は当然なことです。 そこに浅井先生は「強かなる善人たれ」と指導です。したたかなる善人なれば、情報過多、真偽不明情報の中にも右顧左眄(うこさべん)することなく、自らが仏法の道理に照らし取捨選択出来る見識を持ち、浅深勝劣を判釈できることでありましょう。 Copylight 2007 -顕正会是正協議会-ALL rights reserved |